2014.12.07 松陰神社周辺@萩


2014年12月6日: 史跡萩反射炉
明治日本の産業産業革命遺産として世界遺産登録の運動があるのはご存じでしょうか?
中学校の頃? 校外学習としてバス旅行で萩に行った時、そばを通過した記憶があります。
歴史の教科書に炉の写真は載っていたと思うのですが、かみさんが使った教科書には載っていなかったとのこと。
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2014年12月6日: 伊藤博文旧宅
松陰神社から徒歩、数分の所に、伊藤博文旧宅があります。以下は、ネットで調べた情報です。
木造萱葺き平屋建て、29坪の小さなもので、萩藩の中間伊藤直右衛門の居宅でしたが、安政元年(1854)に博文14歳のとき、父林十蔵が直右衛門の養子となり、一家をあげて伊藤家に入家し、居住しました。
ここの駐車場に車を置いて、松陰神社周辺を散策しました。
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2014年12月6日: 高杉晋作と伊藤博文の墓
伊藤博文の旧宅から、山側に登ってい行くと、来年の大河ドラマ「花燃ゆ」の登場人物の葬られた墓群があります。
墓の写真では面白くないので、その近くにある像と碑をアップしました。
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2014年12月6日: 松下村塾
こんな小さな教室から維新の英雄が生まれたのですね。
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2014.12.07 松陰神社周辺@萩 への1件のコメント

  1. かずさん より:

    伊藤博文旧宅の説明で、不明なことば中間(ちゅうげん)がありました。Wikiで調べたら

    中間(ちゅうげん)脇差1つを挿し、時には戦いにも参加し、平時は雑用を行った。大名行列等では奴(やっこ)の役を務めた。渡り中間に代表されるように、一時限りの奉公の場合が多い。 一時限りの中間今で言うみなし公務員。広く一般的に知られる中間はこれを指す。江戸期になると、年季契約や、必要な時のみ口入れ屋から雇い入れるということがしばしば行われた。多くは百姓の次男以下などが奉公したが、武家屋敷の多い江戸など大都市では屋敷を渡り歩く渡り中間のような専門の奉公人を雇うことも多かった。特殊な中間実質的には足軽と同等の扱い。広く一般的に知られる中間とは異なり、藩に正式に採用されている家(世襲で藩に仕え、苗字帯刀が許されている者)や幕末に特殊な事例に用いて採用されたりした者を指す。身分は平民と武士の間。長州藩の山縣有朋や伊藤博文が資料などの記述で、足軽扱いされるのは本来の広く一般的に知られる中間と紛らわしいためであろう。

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